2015 Babymetal総決算 CDJ1516 〜伝説は再び。そして銀河へ飛び立てBabymetal〜
冬の幕張。
縄文人に学ぶ
佐藤卓さんの事務所から御招待を頂いたので、青山ブックセンターで開催された考古学者 小林達雄さんとのトークショー「縄文人に学ぶ」に行ってきました。
【映画】10万年後の安全
来週行われるフィンランド大使館主催のメタルフェスティバル「Finland fest Metal Attack」から案内(無料で見れる)があったので、王子の北とぴあで開催されているフィンランド祭のイベント「北とぴあフィンランド祭」の「10万年後の安全」という映画上映イベントにいってきました。
内容は、フィンランドのオルキルオトに造られる事になった高レベルの放射性廃棄物の最終処理場「オンカロ(フィンランド語で隠し場所)」の建設を巡るドキュメンタリー。フィンランドでは、放射性廃棄物から人類に有害な放射性物質が完全に無くなるのに要する時間が10万年と定義されていますが、現代の繁栄の「対価としての負の遺産」を、その繁栄を享受した現代のフィンランド人達が、「10万年間施設の安全性を守る方法」を考えています。
10万年前の例として、ネアンデール人が出てきますが、10万年後の人類(いればの話ですが)にとっての現代人は教科書でも良くわからないような存在でしかありません。10万年後というのは、とてつも無く先の未来世代です。戦争が起こる可能性、地震などの災害が起こる可能性、言語が失われて別の言語となってしまう可能性、そういう不確実な可能性の中で、その世代に対して、「どうやって無理な負担を強いる事なく安全保障を実現するのか?そして、それをどうやって伝えるのか?」という事を延々と議論しています。
3.11前であれば、もしかしたらこの映画も「答えの出ないことを延々するなんて無意味」と思ったかもしれませんが、この映画は、確実な「当事者」となってしまった私達にとっては強烈なメッセージをもたらします。
10万年後どころか、100年後の先も見通すことも、50年後、いや20年後すら見通す事すら出来なくなりつつあり、「今年の夏が節電されたらどうなるのか?」という事だけに振り回されている日本ですが、回顧主義では無く、繁栄した社会を既に享受している私達が未来に何を残す事ができるのか?という事を考える必要はないのか?という事を改めて考えさせられます。
監督のマイケル・マドゼンは客観的で政治的な意図を廃したとコメントしておりますが、私は「そういう不確実なことに対する責任を負わなければ行けないほど必要なものなのか?」というメッセージがあるように感じます。(スイスでは「反原発」プロパガンダ映画認定されたとか。)
【参考】「オンカロ」の意味するもの~10万年後をどう考えますか?(マイケル・マドセン監督インタビュー)
http://www.nikkeibp.co.jp/article/reb/20120116/296341/
また、フィンランドという国が、「何故社会として成熟していると言われるのか?」という観点でも、映画の中から感じる事が出来ます。科学的であり、哲学的であるフィンランド人のマインドを垣間見ると言う点でも、是非オススメです。
しかし、メタルという音楽からこんな映画に出会わせてくれるフィンランドというの幅の広さは何かスゴイ。(実際に、会場でもちょっとこのようなNPO系のイベントにはいないような長髪の方もいました)
ソーシャルゲームに足りないもの〜コンプガチャ騒動に感じること〜
昨日のグリーに続くDeNAの3月期決算は、売上高1457億円、営業利益634億円、当期純利益は前年同期比9%増344億円で、最高益であるものの若干成長が堅調となったのはGREEと同様でした。コンプガチャについては、消費者庁指導前に幕引きを図り、全面廃止としたのはさすが大人の判断というべきでしょうか。プロ野球チームを買うという話あたりから、DeNAの経営センスは、いかにも頭のいい人達がいるんだろうなと思っていましたが、なんだか「日本の大企業」になろうとしているのかなとも感じます。(いい意味でも、悪い意味でも。)
でも、(もはや、この土俵の中でなんとかするしかない状態ではあるのですが、)批判に対する回答を繰り返し続けた結果、翼を取られ続けてしまうのではないかとも感じます。この話を動かす原動力には、既得権益やら色々な日本の膿のような部分が感じられて、まだまだ波乱はある気がします。(なければそれはそれでいいのですが。)プロ野球を持ちつづける事業規模は維持されても、これまでのような急拡大は出来なくなるかもしれません。もしかしたら、そういうことが分かっているから、グリーは「戦おう」という姿勢を見せているのかもしれません。でも、結果として今は効果的に「炎上」を消す方法がみつからず、混乱しか見せられないようにもなっています。
こういう危機を乗り切る方法の一つとして、「世論を味方につける」という方法があります。会社が主導する訳にはいかないとは思いますが、著名人などから「コンプガチャを守ろう!」「グリーをいじめるな!」などの声を上げてもらう。こういう動きが出てくると、大きなうねりのような流れを止めることがあります。しかし、残念ながらその動きも今の所ないのが現状です。むしろ、逆に従来のゲームファンからは、ここぞとばかりに非難する声が相次いでいます。
なぜでしょうか?私は多くの方からも指摘があるように、ソーシャルゲームそのものが、本来目指すべき、ソーシャルとゲームを融合させてもっと楽しい世界を作っていこうという思想から、人間の快楽を利用した拝金主義的な思想にいつのまにか侵されてしまったことが理由である気がします。ユーザーを増やす原動力であった操作の単純さのため、ソーシャルゲームでは技術や頭ではなく、運と時間という要素が差を産みます。それが、マネタイズが無限に儲けを生み出せる可能性を秘めていたのです。
私が「ゲームというものが大変なことになるぞ?」と思ったのは、2010年末にNHKスペシャルで放送された「世界ゲーム革命」という番組です。天才的なゲームデザイナーが生み出す「名作」に依存する日本製のゲームに対して、徹底したマーケティングにより、より効率的にヒットする世界のゲーム産業がいかに脅威か?という内容が印象的で「面白さ」の追求より「いかに受けるか?」ということを目指す世界になっていくのだと感じました。と、同時に暴力的な表現により、人間の本能や快楽に直接的に訴えるような海外産のゲームが世界的なヒットを産むいった状況を見つつ、ゲームがどうなっていくのか?というのは、ゲーマーではない私でも興味深く感じていました。
一方で、日本のゲーム業界はその流れを変える程の事ができず喘いでいましたが、その中でソーシャルゲームの台頭がありました。当初は「暇つぶし」としか映らなかったのですが、この分野にマーケティング的な要素が導入され、ソーシャルである事による競走心理や、(今、話題の)射幸心を煽るような仕掛けが取り入れられ、終わる事のないエンディングや、利用状況に合わせて変えられるパラメータなど、オンラインだからこそ実現できることを活かした要素がどんどん増えてきました。昨年夏ぐらいからは、「ゲーミフィケーション」という言葉も流行り、異業種への適用など行なわれるなど、一大ムーブメントとなっていました。
「ソーシャルゲームの平均ARPU(average revenue per user)が2000円程度」という話を聞いたのはその頃です。周りには、あくまで無料で楽しむユーザーが多かったので驚きましたが、実際、無料ユーザーの比率が高いにも関わらず、それだけの平均ARPUがあるのは一部の超高額を支払っているからに違いありません。正直、危ないのでは?と感じていましたが、当初は「あんなのはゲームではない」「グリーもDeNAもぼったくり」というスタンスだったゲームメーカーも吸い込まれるように、ソーシャルゲームのタイトルを出すようになり、知らない間に、稼いだもん勝ち状態になっていました。
こうなると止まりません。積極的な海外進出が、衰退する製造業と対比して、日本の希望のように扱われ、マネタイズで苦労するインターネット業界の光となりました。ゲームの面白さなど、本質とは違うところでムーブメントが出来るいわゆるバブル状態に近いものを感じました。本当に日本の雄となる産業となるには、あまりにも本質的ではないように感じてしまったのも事実です。
以前、御一緒したある著名なプロダクトデザイナーの方から「マーケティングはものづくりをダメにする」と言われた事があります。完全に同意できるものではありませんでしたが、その言葉の意図は「使ってくれる人を思い、その人にとって本当に良いものを作らなければいけない。そこにはデータだけでは判断してはいけない愛情がある。」というものです。その言葉は今でも私のバイブルですが、そういう事がものづくりにおいて最も大事で、長く愛され続けるために必要と感じている私だからこそ、今のソーシャルゲームにはユーザーに対する愛情があるのだろうか?」と感じていたのかもしれません。
グリーの田中社長は、最近のインタビューで「必ずしも自分が使いたいものだけではない」と発言しています。もちろん、色々な立場の経営者がいるので、これだけで彼を否定するべきではありませんが、スティーブ・ジョブスが「僕は特に使いたくないけれど、この新しいiphoneはいい」とは言わなかったと思います。なぜ、Appleが熱狂的なファンを作り出すのか?それは、経営者であったスティーブ・ジョブスの自社製品、そしてそれを使ってくれるユーザーへの愛の大きさが影響しているのではないでしょうか?かつてのソニー、任天堂にも同じようなユーザーに対する愛情が感じられる商品が沢山あったように感じます。
こんな事を書くと、「精神論か。」「甘っちょろいな。」と思われるかもしれません。でも、実は日本人が最も忘れてしまっている事であり、そして必要な事ではないでしょうか。そして、世界の人たちにもっと使ってもらうために、この気持ちなく実現できるとは私には思えません。
「世界ゲーム革命」の中では、日本のゲームに対する世界の人たちの尊敬が描かれていました。彼らが尊敬されていたのも、またユーザーに対する愛情があったからではないかと思います。そして、幸いまだまだ優秀なゲームの作り手は健在です。そして、日本にはそういうゲームを楽しんできたゲームを愛するゲーム業界の人たちも沢山います。その力を結集することで、ソーシャルゲームというジャンルであるのかは、分かりませんが、インターネットとソーシャルというチカラを使って、暇つぶしでもない本当に面白いゲームを作るという事はまだまだ可能であるように感じます。
グリーの決算資料の中にある「インターネットで世界をもっと良くする」という言葉。私もその力を信じています。そして田中社長とは同年代でもあります。だからこそ、応援もしています。この危機を「乗り切ろう」という気持ちだけでは、乗りきれないのではないのはもはや明白です。もう一度原点に帰り、利用するユーザーへの愛を持ってソーシャルゲーム第二章を作りだして欲しいと心から願っています。
Good Designの作り方(私案)
視覚的なトリックを駆使して、良い意味でユーザーを「だます」アップルのデザイン思想は、マルチタッチ技術などのインターフェース開発にも反映されている。同社の持つインターフェース関連技術を詳しく調査すると、そこからは、ある一貫した設計思想が見えてくる。それが、画面上で目に見えるものだけに頼らない「人間の身体感覚」を重視したインターフェースデザインだ。
~iPhone/iPadに込められた「見えないデザイン」。体感を最優先して、先回りするインタフェース~
数年前、私が携帯電話の商品企画を担当していたときに、マーケット調査や市場環境から、携帯電話のデザインを強化する必要があるという方向になったことがあった。
当時は、「デザイン」を強化する必要があるという認識は持っているものの、携帯電話(フィーチャーフォン)のデザインコラボ端末が、一部の機種は沢山売れるもののの、全く売れない散々な機種もあるといった状況。そういう中で、どうやって強化していくべきなのか?ということが我々のミッションだった。
同僚の中には「デザインというものは感性や感覚的なもので、良いデザインは『感性豊かな』デザイナーでないと作れないので、これからも『デザインコラボ』携帯電話は必要(むしろ増やしていくべき)だ」と主張するメンバーもいたが、そもそも、「デザイン」に関しては、なぜかそういった「大きな誤解」がある。
最近、iPhoneのデザインに関して調べてみたことがあったが、日本語の記事では、インダストリアルデザイン界のスーパースターSir Jonathan Iveに関する記事が多かった。ここからも、分かるが、やはりデザインというのは、巨匠といわれるようなデザイナーがイラストだかイメージだか分からないようなものを書いて、それをプロダクトとしてまとめていくものというイメージがあるらしい。
そういう中で、上記のような記事が出はじめており、ようやく「デザインとはデザイナーの発想だけによるものではない」ということが、一般の中でも認知されてきたのかもしれない。
それではどうやって「良いデザイン」は作られるのか?
私は、
①誰に何のために使ってもらうのか?という明確な目標
②そのために必要な要素の抽出
③過去の事例等の検証や調査などから、利用するユーザの要求レベルの確認。
④③を元にした、それぞれの要素に対する実現すべき目標設定。
⑤④を実現するための素材、技術とエンジニア
⑥(と、それらを理解して、表現をすることのできる)デザイナー
⑦(それら全てを理解して)異なるプレイヤーをまとめることのできるオーガナイザー
の7つの要素ではないかと思う。
これは、WEBデザインひとつにしても、建物の設計に関しても、大きく変わらず。これらすべてがそろったときに、初めて「その使い手にとって」良いデザインが生まれると思う。
そして、そのために⑦が重要なのは言うまでもないが、実は一番難しく、しかも重要なのは⑥ではなく、①と④であるように感じる。
優秀な⑦がいれば問題はないのだが、メーカーのインハウスデザイナーと話していて、よくある話は、①のターゲットや目標設定があらゆる制約条件の中で、知らない間に変わってしまい、目標とするものができないということが多い。
また、④についても、③=④になってしまうと、ユーザーの「声なき声」を見逃してしまうことが多く、特にマーケティング偏重のチームが陥りやすい罠だ。たとえば、「どういうデザインの○○が欲しいですか?」というアンケートをそのままデザインすると、極めて凡庸でつまらないものができたりする。ユーザの心理を理解し、どのようなものを使ってみたいのか?使えるのか?を理解して目標を設定しなければいけない。
そして、再度になるが、一番大事なのが、⑦。アップルで言うと、まさにSteve Jobsである。Steve無き今、Appleが一番苦労するのがこの「デザイン」の分野であるのは間違いないだろう。
⑦を堅実な実務家であるTim Cookが担当するのか、それともJonathanが⑦を兼ねるのか?Steveのことであるから、おそらく自ら亡き後のフォーメーションも明確に示しているだろうが、次のプロダクトがどのように作られるのか?というところは非常に興味深い。
京都に想ふ
週末から、休みをとって京都に行ってきた。色んな理由はあるのだが、思うことの多い旅だったので、忘れないように記しておきたい。
1.何もない事
京都に向かう車中で読んだのが、岡本太郎の「沖縄文化論」。
京都なのになぜ沖縄?というのは、何の事はない。単に図書館で予約していたのが、このタイミングで届いたにすぎない。ただ、このタイミングで読めたのは、なんとも絶妙なタイミングだった気がする。
最近、私が考えているのは、昨年の震災や原発事故、円高や果てしない経済不況による混乱が訪れ、多くの日本企業の世界でのプレゼンスが低下する中で、「日本とは何か?日本人とは何か?」ということだ。世界で戦える日本の良さとは何なのか?ということは、先人を見ることでヒントがあるかもしれない。そんなことをこの旅で見つけられればと思っていた。
岡本太郎氏が沖縄を訪れたのは、まだ米国軍政下のこと。そんな中でも、マイペースに生きる沖縄の人と接し、太郎氏は沖縄で唄や踊り宗教という文化を知る。そして、それらに共通するのは「無形であるということ」だった。
特に神様と対話するための場所が森の中にある何もない場所であったことに彼は感動する。そして、そもそも輸入文化国である日本文化の本質もここにあるのではないか?と問う。そして、沖縄復帰にあたり「沖縄が本土に復帰するのではない。本土が沖縄に復帰するのだ」という強烈な言葉を残した。
日本人の本質も本来無形である精神性に宿るのだとすると、その精神性とは現代を生きる我々にどういう形で残っているのだろうか。私は本の中から答えを見つけることはできなかったが、「日本の良さ=モノづくり」という一面しか捉えていなかった私にとっては、京都での課題が与えられたような気がした。
2.京都の街並みとソーシャルコミュニティ
京都の街並みを歩いていて感じたこと。それは空間というものは、コミュニティを可視化するものだいうことだ。
中心部を歩いていても感じないが、ちょっと路地に入り、町屋街を歩いていると様々な部分にその様子がわかる。
玄関の軒先に祀ってある縁起物はその家が属している宗派などを表すし、ある街並みでは「掃除当番」という札が軒先にぶら下がっている。自営業なら看板は勿論のこと、その他ベルマークの回収箱や、支持政党のポスターもある。町屋という定型化されたフォーマットに示されるこれらの「アイコン」は、別の見方をするとコミュニティ同士の緊密性、信頼関係であるように感じた。
東京の住宅街でも分譲新築住宅などで同一フォーマットはあるが、京都の街並みでは住民自らの意思で同一フォーマットを選択している。自ら、同一のコミュニティに入ることを望み、そのコミュニティの中で帰属意識を様々なカタチで示している。
ネガティブな見方をすると閉鎖的とも言えるかもしれないが、コミュニティというものはその場にいる構成員の合意が基本形であり、その合意が守られているということは、構成員にとってはそれが快適ということだ。
コミュニティそのものが可視化出来ているということは、逆にいうとその要素を抽出することも可能なはずだ。 実在空間とSNSなどの仮想空間のコミュニケーションには大きな差があり同一化はできないと言われるが、もしかするとそれは実空間におけるコミュニティの洞察が足りないだけで、うまく活用すると相互によい可能性を生み出すのではという事を感じた。
3.東山花灯路とAR
今年で10年目と言われる東山のイベントに行ってみた。
ロームのLED電球が東山の風情ある街並みを彩り、美しい京の街をより美しく、訪れる春の夜を彩っていた。日本人として、とても穏やかな気持ちになれる夜景のイベントを初めて体験した気がして、改めて「作られてない本物」の持つスゴさを感じたが、何より感動したのは知恩院で見たプロジェクションライトアップ。
三門をキャンバスに、音楽に合わせて屋根や欄干などの色がまるでネオンのように変わったり、そこにあるはずのディテールが変わったり。不思議であると同時に非常に美しかった。実在する物体の存在を拡張するパフォーマンスは、まさに「拡張現実(AR)」。繊細かつ、三次元を二次元的で豊かに表現するテクニックは極めて日本的で、おそらくCADから起こしているのだろうが、単なるVJとは一線を画す表現だった。
神は細部に宿るというが、この細部へのあくなき拘りが美しさを実現。それは元になる数百年前の実物も、現実の拡張でも同じ拘りを持つからこそ、初めて価値ある融合となる。
4.自然に守られる街
春分の日ということもあり、真東から上り朝日を浴びようと、日が上がる前に銀閣寺口から大文字山に登った。
美しい碁盤の目のような街を照らす京都の街を抱きかかえるように囲む山々を見て、自然と都市(人間)の共生を感じた。
照らす太陽の光や暖かさを感じながら、人間の存在は自然の一部にすぎないと改めて認識した。人間は多くの創造物により自らの力を拡張してきた。ただし、その結果、我々人間は自分自身でもコントロールできない強大な力を持ってしまった。その結果、自らの命を脅かす危機を迎えている。
京都への旅行を通して、もう一度人間というものの内面を見つめなおす必要を強く感じた。我々にとって本当に必要なものは何か?豊かになることだけが、便利になることだけが本当に人類にとって必要な進化か?退化するのではない、本当に先人が築いてきた力をどのように向けて使っていくべきなのか?もう一度そういったことを考える必要を感じた。
震災一年~「フクシマ」の教訓とは何か?
「コラム:震災1年、「フクシマ」の教訓」 by Edward Hadas
「福島原発事故の真の教訓は、原発反対派と支持派の意見の隔たりが、事実や証拠をもって埋めるには大き過ぎるということだ。どんなケースであれ、反対派の多くは、原発は人間が管理すべきではない本質的に危険な技術と考えるだろう。一方で、どんなにコストが高くつこうと、賛成派の多くは原発が素晴らしい技術であり、人類の長期的な快適さには必要で、リスクは管理可能だと考えるだろう。」(抜粋)
http://jp.reuters.com/article/jp_column/idJPTYE82B04C20120312?pageNumber=2&virtualBrandChannel=0
筆者が指摘するとおり、私は原発問題の全てにおいて、「建設的な議論」というものを一度も見たことがない。賛成派も反対も、結局のところ感情論に訴えざるを得ないと言う問題がある。更に、インターネットメディアでは、それぞれの支持者がそれぞれの主張を選択的に取得することから、所謂感情の煽りが加速しやすい(炎上しやすい)こともあり、もはや議論自体が崩壊している。最近の瓦礫問題では、「放射脳」「御用学者」などの非難用語まで溢れ、それぞれ「おかしい。理解できない。」と言う、まさに「分裂」状況になっている。
ちなみに、コラムの筆者は、「不確実性を前にした妥当な政治的は選択は時勢に任せるしかない」と言っているが、私は、「不確実性がある時点で政治が『人間の手に負えない』と判断すべき」という立場だ。
おそらく賛成派は、「人類の進化は無限の可能性があるので、そのような考え方は進化のスピードを弱める。リスクがあっても少ないうちは実を取るべきだ」という非難をするだろうが、逆に私は「人類がコントロールできない技術の導入を国が判断するときには、それに対して(金銭の授受などがない限りは)成員の多数の了解を得られないわけだから、英知を結集し判断できる能力ができてから導入すべきで、それができない状況での導入は不幸しか招かない」と考える。
と、もはや思想の問題になってしまう。つまり、正しい一つの考え方など存在しないのだ。
ただし、そんな議論をしていても何も解決しないというのは間違いない。ましてや、日本人というのは、諸外国と異なり宗教的倫理観が身近になく判断に足る材料もない。思想的な問題を1つの意見に集約するというのは非常に困難と思われる。
では、我々はどうすべきなのだろうか?
一つは判断を急がずに同じ国民として生きるということをあきらめないと言うことだ。そしてもう一つは、こういった状況だからこそもう一度、日本の向かっていくグランドデザインについて真剣に作るということを国民全体の問題として議論すべきことだ。復興と言う観点では急がなくてはいけないのは百も承知だが、将来を描かず眼前の問題を処理するだけでは、結局いつか歪を生んでしまうのは間違いない。「政府が提示しない」と他人事として言うのはかまわないが、国民一人一人が自分の問題として考えることが大切だ。そして、最後にそのグランドデザインに向かって、何をすべきかを考え、実行するということだ。
政府の今の全ての対応は、国民をないがしろにし、無計画(いや、官僚的観念では「計画的」かもしれないが)のまま暴走しているように思えない。原発や放射能について議論が様々あることも認識しているはずだが、完全に放置されたまま、強引に進められている。政府がすべきは国民に議論を促し、是非を問い、計画を作ることしかない。
このままの状態では問題しか起こらないだろう。今後起こる問題はもっと大きくなる。日本国民が精神的な分裂を起こしてしまったとき、この国の将来は非常に暗いものとなるのは間違いない。
我々日本人にとって試練とも言えるあの日から1年が経った。もはやそのタイムリミットは限りなく近い。日本人が愛せる日本をいつまでも残すために、今こそ「どういう日本にしたいか」を考えなければいけない。