震災一年~「フクシマ」の教訓とは何か?

「コラム:震災1年、「フクシマ」の教訓」 by Edward Hadas

福島原発事故の真の教訓は、原発反対派と支持派の意見の隔たりが、事実や証拠をもって埋めるには大き過ぎるということだ。どんなケースであれ、反対派の多くは、原発は人間が管理すべきではない本質的に危険な技術と考えるだろう。一方で、どんなにコストが高くつこうと、賛成派の多くは原発が素晴らしい技術であり、人類の長期的な快適さには必要で、リスクは管理可能だと考えるだろう。」(抜粋)

http://jp.reuters.com/article/jp_column/idJPTYE82B04C20120312?pageNumber=2&virtualBrandChannel=0

筆者が指摘するとおり、私は原発問題の全てにおいて、「建設的な議論」というものを一度も見たことがない。賛成派も反対も、結局のところ感情論に訴えざるを得ないと言う問題がある。更に、インターネットメディアでは、それぞれの支持者がそれぞれの主張を選択的に取得することから、所謂感情の煽りが加速しやすい(炎上しやすい)こともあり、もはや議論自体が崩壊している。最近の瓦礫問題では、「放射脳」「御用学者」などの非難用語まで溢れ、それぞれ「おかしい。理解できない。」と言う、まさに「分裂」状況になっている。

ちなみに、コラムの筆者は、「不確実性を前にした妥当な政治的は選択は時勢に任せるしかない」と言っているが、私は、「不確実性がある時点で政治が『人間の手に負えない』と判断すべき」という立場だ。

おそらく賛成派は、「人類の進化は無限の可能性があるので、そのような考え方は進化のスピードを弱める。リスクがあっても少ないうちは実を取るべきだ」という非難をするだろうが、逆に私は「人類がコントロールできない技術の導入を国が判断するときには、それに対して(金銭の授受などがない限りは)成員の多数の了解を得られないわけだから、英知を結集し判断できる能力ができてから導入すべきで、それができない状況での導入は不幸しか招かない」と考える。

と、もはや思想の問題になってしまう。つまり、正しい一つの考え方など存在しないのだ。

ただし、そんな議論をしていても何も解決しないというのは間違いない。ましてや、日本人というのは、諸外国と異なり宗教的倫理観が身近になく判断に足る材料もない。思想的な問題を1つの意見に集約するというのは非常に困難と思われる。

では、我々はどうすべきなのだろうか?

一つは判断を急がずに同じ国民として生きるということをあきらめないと言うことだ。そしてもう一つは、こういった状況だからこそもう一度、日本の向かっていくグランドデザインについて真剣に作るということを国民全体の問題として議論すべきことだ。復興と言う観点では急がなくてはいけないのは百も承知だが、将来を描かず眼前の問題を処理するだけでは、結局いつか歪を生んでしまうのは間違いない。「政府が提示しない」と他人事として言うのはかまわないが、国民一人一人が自分の問題として考えることが大切だ。そして、最後にそのグランドデザインに向かって、何をすべきかを考え、実行するということだ。

政府の今の全ての対応は、国民をないがしろにし、無計画(いや、官僚的観念では「計画的」かもしれないが)のまま暴走しているように思えない。原発や放射能について議論が様々あることも認識しているはずだが、完全に放置されたまま、強引に進められている。政府がすべきは国民に議論を促し、是非を問い、計画を作ることしかない。

このままの状態では問題しか起こらないだろう。今後起こる問題はもっと大きくなる。日本国民が精神的な分裂を起こしてしまったとき、この国の将来は非常に暗いものとなるのは間違いない。

我々日本人にとって試練とも言えるあの日から1年が経った。もはやそのタイムリミットは限りなく近い。日本人が愛せる日本をいつまでも残すために、今こそ「どういう日本にしたいか」を考えなければいけない。