京都に想ふ

週末から、休みをとって京都に行ってきた。色んな理由はあるのだが、思うことの多い旅だったので、忘れないように記しておきたい。

1.何もない事

京都に向かう車中で読んだのが、岡本太郎の「沖縄文化論」。

京都なのになぜ沖縄?というのは、何の事はない。単に図書館で予約していたのが、このタイミングで届いたにすぎない。ただ、このタイミングで読めたのは、なんとも絶妙なタイミングだった気がする。

最近、私が考えているのは、昨年の震災や原発事故、円高や果てしない経済不況による混乱が訪れ、多くの日本企業の世界でのプレゼンスが低下する中で、「日本とは何か?日本人とは何か?」ということだ。世界で戦える日本の良さとは何なのか?ということは、先人を見ることでヒントがあるかもしれない。そんなことをこの旅で見つけられればと思っていた。

岡本太郎氏が沖縄を訪れたのは、まだ米国軍政下のこと。そんな中でも、マイペースに生きる沖縄の人と接し、太郎氏は沖縄で唄や踊り宗教という文化を知る。そして、それらに共通するのは「無形であるということ」だった。

特に神様と対話するための場所が森の中にある何もない場所であったことに彼は感動する。そして、そもそも輸入文化国である日本文化の本質もここにあるのではないか?と問う。そして、沖縄復帰にあたり「沖縄が本土に復帰するのではない。本土が沖縄に復帰するのだ」という強烈な言葉を残した。

日本人の本質も本来無形である精神性に宿るのだとすると、その精神性とは現代を生きる我々にどういう形で残っているのだろうか。私は本の中から答えを見つけることはできなかったが、「日本の良さ=モノづくり」という一面しか捉えていなかった私にとっては、京都での課題が与えられたような気がした。

 

2.京都の街並みとソーシャルコミュニティ

京都の街並みを歩いていて感じたこと。それは空間というものは、コミュニティを可視化するものだいうことだ。

中心部を歩いていても感じないが、ちょっと路地に入り、町屋街を歩いていると様々な部分にその様子がわかる。

玄関の軒先に祀ってある縁起物はその家が属している宗派などを表すし、ある街並みでは「掃除当番」という札が軒先にぶら下がっている。自営業なら看板は勿論のこと、その他ベルマークの回収箱や、支持政党のポスターもある。町屋という定型化されたフォーマットに示されるこれらの「アイコン」は、別の見方をするとコミュニティ同士の緊密性、信頼関係であるように感じた。

東京の住宅街でも分譲新築住宅などで同一フォーマットはあるが、京都の街並みでは住民自らの意思で同一フォーマットを選択している。自ら、同一のコミュニティに入ることを望み、そのコミュニティの中で帰属意識を様々なカタチで示している。

ネガティブな見方をすると閉鎖的とも言えるかもしれないが、コミュニティというものはその場にいる構成員の合意が基本形であり、その合意が守られているということは、構成員にとってはそれが快適ということだ。

コミュニティそのものが可視化出来ているということは、逆にいうとその要素を抽出することも可能なはずだ。 実在空間とSNSなどの仮想空間のコミュニケーションには大きな差があり同一化はできないと言われるが、もしかするとそれは実空間におけるコミュニティの洞察が足りないだけで、うまく活用すると相互によい可能性を生み出すのではという事を感じた。

3.東山花灯路とAR

今年で10年目と言われる東山のイベントに行ってみた。

ロームのLED電球が東山の風情ある街並みを彩り、美しい京の街をより美しく、訪れる春の夜を彩っていた。日本人として、とても穏やかな気持ちになれる夜景のイベントを初めて体験した気がして、改めて「作られてない本物」の持つスゴさを感じたが、何より感動したのは知恩院で見たプロジェクションライトアップ。

三門をキャンバスに、音楽に合わせて屋根や欄干などの色がまるでネオンのように変わったり、そこにあるはずのディテールが変わったり。不思議であると同時に非常に美しかった。実在する物体の存在を拡張するパフォーマンスは、まさに「拡張現実(AR)」。繊細かつ、三次元を二次元的で豊かに表現するテクニックは極めて日本的で、おそらくCADから起こしているのだろうが、単なるVJとは一線を画す表現だった。

神は細部に宿るというが、この細部へのあくなき拘りが美しさを実現。それは元になる数百年前の実物も、現実の拡張でも同じ拘りを持つからこそ、初めて価値ある融合となる。

 

4.自然に守られる街

春分の日ということもあり、真東から上り朝日を浴びようと、日が上がる前に銀閣寺口から大文字山に登った。

美しい碁盤の目のような街を照らす京都の街を抱きかかえるように囲む山々を見て、自然と都市(人間)の共生を感じた。

照らす太陽の光や暖かさを感じながら、人間の存在は自然の一部にすぎないと改めて認識した。人間は多くの創造物により自らの力を拡張してきた。ただし、その結果、我々人間は自分自身でもコントロールできない強大な力を持ってしまった。その結果、自らの命を脅かす危機を迎えている。

京都への旅行を通して、もう一度人間というものの内面を見つめなおす必要を強く感じた。我々にとって本当に必要なものは何か?豊かになることだけが、便利になることだけが本当に人類にとって必要な進化か?退化するのではない、本当に先人が築いてきた力をどのように向けて使っていくべきなのか?もう一度そういったことを考える必要を感じた。